小さき兄弟会総集会
ポルチウンクラ
 
(サンタ・マリア・デリ・アンジェリ)
2003・05・25−2003・06・21
(日本語版)

総長報告(第二部)
教皇メッセージ 総長報告 (0)  (1)  (2)  (3) 特別講演 総括文書  (1)  (2)  (3)

総長報告 第二部

 

 本会の展望[ヴィジョン]

はじめに 

27 このプレゼンテーション第二部では、様々に異なった各管区の現状を踏まえて下記のことを目標にしながら会の全体像を描こうと試みました。 

     私たちの家族を愛してもらうこと:多くの豊かさと刷新の可能性を持っていることを示すことです。たとえ各管区でそれらがしばしば適切に表現されず、評価されていないとしてもです。

     未来に向かって進むこと:生き生きとした希望を持ち、自分たちの現在の生活様式や考え方、行動様式をすぐにでも改めることによって進むことです。未来は、私たちが自分たちの可能性を信じて、今目の前にある刷新の基盤を整えてこそ初めて意味を持つのです。 

28 本会の展望[ヴィジョン]は(これについては総理事会で再三話し合ってきました)、限界があり現実とギャップがあるように一部の人には見えるかもしれません。総長報告書というものは多少なりともそれぞれの管区の状況を正確に反映しているべきであると考える人には特にそう見えるでしょう。しかし、この報告書はそのようなものではありません。私は本会全体のグローバルな展望[ヴィジョン]を描こうと努めました。この大家族の可能性を受け入れて、その中に秘められている豊かさを発掘し、また生活を見直すために、新しい地平へと招くことをこの報告書で目指しています。 

29 方法についてですが、この報告は総理事会が兄弟たちの使命を鼓舞する任務を受けた当初、私たちで作った「フランシスコ会の優先課題、1997年〜2003年 −総理事会から出された公文書−」の枠組みに従っています。この「優先課題」を6年間すべての管区でも分かち合う方法論として用いるようにお願いしました。皆さんは責任をもってそれを果たしてくださいました。 

I.祈りの精神(nn.54-70) 

歩み直せると信じて、もう一度始められるなら・・・ 

30 神を信じること:信仰とは、単なる既成事実でも、いと高き所から一回限りでいただくお恵みではないと思います。信仰とは、絶えず探し求めるダイナミックなものであり、他のいろいろなものに頼る生き方から脱却して主イエスに今まで以上に深く愛と忠実を捧げる生き方への道程なのです。また、信仰は様々な形の自己中心や所有欲、出世欲、支配欲を乗り越えることを要求する旅路なのです。・・・このようにして私たちの存在と行動は変えられ、私たち自身が絶対者であられる神を預言し、証しする者となるのです。この緊張感を受け入れて生きることによってのみ、つまり本来のものを中心とすることによって、私たちは自分の生活を「立て直し」、自由で喜びに満ちたフランシスカン的な単純さに立ち戻ることができるのです。 

31 私たちが生きているこの歴史的瞬間は、世界的な視野で自分の存在を見直すようにと私たちを促しています。もはや、端っこをちょっと修正したり、一時的に補修したりして済む時代ではないのです。私たちの関係、自分の存在と行動、召命と使命、これらを再構築する必要があります。 

私たちの愛はもっと深い信仰ともっと大きな希望を必要とする 

32 私たちの使徒的活動や社会活動のすべては、信仰のうちにその存在理由を見いださねばなりません。その信仰とは祈りの精神によって養われ、生き生きとした具体的なものとなり、フランシスカン的なあらゆる体験を神に帰することのできるものです。「私たちは寄留者であり巡礼者である」こと、絶対者であられる神の探求者であることをフランシスコとクララは絶えず思い起こさせてくれます。この緊張感をもって未来を目指すことが、神に生涯を捧げた人間に求められていることです。なぜなら、もし、その再臨が待ち望まれている神の姿がこの世の出来事の中から見えなくなった場合、信仰から魂が消え、宣教から預言的な力が抜けてしまうからです。この視点に立ってこそ、私たちは教会と世界における預言的な役割を取り戻すことができるのではないでしょうか。 

33 私たちを取り巻く世俗化の流れは、時代と歴史の主である神とのパーソナルな関係を促進してはくれません。それどころか、時代と歴史の主である神は私たちの生活の複雑な出来事から姿を隠しておられるように見えます。召命による選択は、この優先的な関係を自動的に保証してくれるわけではなく、また、個人的・社会的な存在の「神学的」な解釈を容易にしてくれるわけでもありません。 

34 また、教会内においても、証しする「場所」、すなわち、「逆説的に」福音的であるがゆえに常に「預言的」である私たちの役割を識別し、定義し直す必要があります。もしも私たちが「主から教会に与えられた贈り物」であるとすれば、教会のただ中にあって、死の文化の中にひそむ命の芽生えを見逃さない方法を知っている直感的で霊的な力に頼ることが大切です。一貫性と大胆さと独創性をもって、世俗を超えた価値を渇望する世界において、新しくて意味のある宣教的な対話の形を見つけなくてはなりません。 

35 現代における私たちの在り方を会全体で建てなおすためには、立ち止まる勇気が必要です。立ち止まって、神のみ言葉に耳を傾け、兄弟愛をもって互いの話を聞き、世界の動きに注意を払う必要があります。それは、フランシスカン召命に対する希望と情熱の理由を再び見いだすためなのです。これほど差し迫った司牧的責任は他にありません。この探求は私たちの生き方の特徴をなすものですが、決して効率よくやろうなどと思ってはなりません。地道にやってこそ、私たちの言葉は信頼性を持ち、私たち自身が生きた言葉となれるのです。 

36 この6年間各地を視察し、会議と体験の分かち合いを重ねてきましたが、多くの兄弟たちが刷新への強い意欲を持っていることがわかりました。多くの管区長たちはそれぞれの管区の兄弟たちに自分の召命についてよく見直しをし、新しい方向付けをするように促しました。祈り込めたみことばの朗読Lectio divinaは個人の祈りと信仰の分かち合いの手段として徐々に兄弟会の中に浸透して来ています。管区長たちは、会則の定めに従い、自分に委ねられた兄弟たちの霊的な生活を鼓舞する任務を負っています。管区によっては、祈りの場所が兄弟会の毎日の生活を評価する基準点(reference point)となっているところもあります。報告書によると、真実と召命の忠実さに重大な影響を及ぼしかねないある種のためらいや困難も、当然のことながら見られるということです。 

37 最大の課題は、個人の生活と共同体の生活を調和させることでしょう。私たちが神のうちに一つに結ばれるためには、どちらの生活も祈りの精神に集中させることが大切です。 

U. 兄弟会における共同生活:新しい姿を求めて(nn.71-88) 

 「兄弟は、一人ひとりが、神から兄弟会に授かった賜物である・・・兄弟会全体が神との出会いの優れた場となる」(会憲40)。 

38 「兄弟的な交わりの生活は兄弟たちに、

     一致して会則と会憲を守ること、

     同じような生活レベル、

     兄弟的生活の諸活動、

     とりわけ共同の祈り(兄弟会を神との出会いの神学的な場として)、

     福音宣教と家事に参加することを要求しています。

     また同様に、どのような名目で得たものであれ、すべての収入を共同体の使用にために提供することを要求しています(会憲42,2)。 

39 これは会憲から引用した文章で今更コメントの必要はありませんが、初めて誓願を立てた日から生涯を閉じる日までの毎日の生活を見直すチェックリストとして役立てたいと思います。兄弟的な側面は私たちのカリスマの最も重要な一部をなしており、したがって、生活様式、在り方、奉仕の仕方、福音宣教、時間管理などの基礎となるべきものです。兄弟的な関係を見れば、その他の関係の質がよくわかります。たとえば、神との関係や自分自身との関係、社会との関係など。大切なことは、ゆっくりと、しかし着実に自分の生き方を変えてゆくよう絶えず努力することです。「(兄弟たちは)共同体を、キリストにおいて結ばれた家族のように築き上げるよう努める」のです(会憲45,1)。 

兄弟会の新しい姿 

40 最近数年の間に多くの兄弟共同体が刷新をとげたのは確かです。管区および各地の兄弟共同体を築き上げるために対話を促進し、積極的な共同責任の雰囲気を作り出すような相互信頼と尊敬の精神が育ちつつあります。修道院長や養成担当者などが他の兄弟たちと根気強く家族的な関係を築いてくれたおかげで、兄弟的な一致を「壊してしまう人」はどんどん減っています。この交わりの生活は、対話と神のみ言葉の分かち合い、共に作成した共同生活計画、そして、最近ますます生活の見直しの場となっている修道院会議に基づいて築かれています。兄弟的な側面が私たちのアイデンティティーの必要不可欠な要素であることを管区長たちが確信して、理事会や修道院長、養成担当者たちと力を合わせてこの新しい精神を推し進めてゆくように努めるならば、すべてはより円滑に実現され、会の姿も少しずつ変化してゆくでしょう。 

相関的回心(relational conversion) 

41 兄弟的生活の質を最終的に高め得る仕事、つまり、将来どうしてもやらなければならないことがあるとすれば、それは相関的回心です。それは、私たちの関心と努力の中心を、各管区の組織を何とか活性化させようと試みる治療的強化とか管理運営上の問題よりも、各兄弟の霊的−相関的生き方に置くことです。個人が兄弟会の緊急の要請を積極的に無条件に受け入れる姿勢を育むことが今まで以上に必要になるでしょう。このようにして、兄弟会の急を要する問題がすべての計画や使命の中心となるのです。聖フランシスコは「自分のことを取るに足りない者だと思い始めた」(3人の伴侶の伝記8)時、神と他者に心を開くために新しい旅を始めました。私たちにとっても、「自己中心」を乗り越えることのできる新しい時代がやってきたのです。自己中心は真心と礼節をもって兄弟に心を開くことを妨げるものです。 

42 この相関的回心は、管区においても通用する有効な手段です。一つの管区の持つあらゆる可能性は、それが世界中の兄弟共同体や世界に向けられた時に最大の効果を表わします。私たちは聖霊降臨の時に、すべての怖れを乗り越えて、それぞれの地域を「超えて」世界に散らばるように促されました。「遠心力」運動が始まったのです。福音のメッセージは世界に向けて発信されるために、最初の限定された場所(エルサレムとパレスチナ)を飛び越えました。会や管区の初期の姿は、世界に開かれた旅する者であったことを私たちは知っています。今日では、危機に直面して、殻に閉じこもろうとしているように見えます。私たちの管区では、(組織的にも人員的にも)大変恵まれていながら(恵まれすぎて)、時のしるしに注意を向けていないためにそれが活かされておらず、自分の殻に閉じこもって「窒息」しているように思われます。協力と相互交流へと自分を開放することによってのみ、世界に広がる兄弟会の歩みは活気を取り戻し、各管区は単なる生き残り論理に「妨げられる」ことがなくなるのです。兄弟たちも召命の刷新に取り組むのに必要な自信を再び取り戻すでしょう。 

43 本会は、「夢を見る」ことのできる情熱的な兄弟たちのおかげで、これまでも絶えず刷新されてきました。別々の管区に所属しながら、彼らは協力し合って新しい福音的な組織に命を吹き込んでくれました。たとえば、「オブセルバンテス」運動の歴史を考えてみたらわかると思います。本物の兄弟会を築き上げるためには、世界の期待や教会とフランシスカン家族の期待に対して、もっと責任を感じ、「連帯する」必要があります。このような「グローバルな」問題に対して関心が薄いために、私が以下に指摘するゆゆしい問題が生じたのです。すなわち、 

     会の分裂、

     すべてのフランシスカン的価値の破壊につながる、自分と自分の安楽を求める個人主義、

     一部の管区で起こっている差別的な聖職者主義(clericalism)による傷、

     会則と会憲の精神とかけ離れた兄弟間の不平等、

     関係を損なう偏見と信頼の欠如。 

44 「人々が期待している者と違った者にならないように注意しなさい」(2チェラノ142)。これは世界中の人々が信頼を込めて私たちに繰り返し言っていることです。自分のエネルギーをあまりにも個人的な、自分の地域だけのプロジェクトのために浪費して、人々の期待を裏切ってはなりません。 

V.小さき者、清貧、連帯の 生活(n n.89-108)

「神の御子は私たちの道となられた」(TestC 5) 

45 「清貧によって浄化された自由の理想的な姿を証しすることは、私たちフランシスカンが教会と世界のために応えなければならない典型的でカリスマ的な課題である」(2001年総評議会Acta CPO 2001, p.112)。大切なことは、過去においても現在においても、そしていつも、フランシスカン革命です。それはつまり、すべてを捨ててイエスに従い、世界の道で宣教を続けるようにとの福音を信じることです。信じること、そして、実践すること・・・ 

徹底的な所有物の放棄 

46 キリストに従う近道を探すには二つの条件があります。一つは、情熱を保たせ私たちの歩みに活力を与えてくれるような魅力。もう一つは、私たちの歩みをスムーズに前進させるために、あらゆる形の所有や執着からの自由です。聖書的な表現をするならば、私たちはキリストに征服されて、喜びをもって熱心に宝を探しに出て(マタイ1344参照)、あらゆる障害物から徐々に自分を解放するということなのです。会則の最初にも明確に記されていますが、兄弟たちはキリストに従う躓きとならないように「所有物を持たずに(sine proprio)」生きなければなりません。「兄弟たちは、家、土地、その他いかなるものも、何一つとして自分のものにしてはならない」(Rb6,1)。これはすべての兄弟に求められていることであり、選択の余地のない目標です。

 47 このように徹底的に所有物を放棄し、確信をもって後悔せずに自分自身を捧げるためには、絶えざる回心が必要です。私たちを愛してくださり、ご自分のもとに導いてくださる神を驚嘆の念をもって観想することにより、絶えず自分を新しくすることが求められているのです。そうして初めて、絶対に必要と思われていた多くのものが、実は「相対的」なものであることに気づくことができます。これは生涯養成の論理的・実践的な一つのプロセスです。 

     自分自身を巡業の旅をする者(itinerantとして、奉仕者として、聖霊に従う者として養成すること。聖霊に従うことは、修練者の時から、特に誓願によって会則を受け入れた時から従っている生活様式forma vitae への忠実さの中に具体化されています。

     聖霊によって定期的に自己改革させられる「リスク」を受け入れるよう自分自身を養成すること。その際、自分に授けられた賜物を最大限に利用すること。せっかくの賜物を自分の中で使わずに埋もれさせてはなりません。私たちはしばしば次のように思いこんでいます。私たちが置かれている組織は、丁度私たちに委ねられた奉仕の務めと同じように、変更の必要ないものであり、また、その奉仕の務めは我々以外には誰も果たすことの出来ないものである、と!なんという決まり台詞の繰り返しでしょうか、なんともったいない賜物の持ち腐れでしょうか!

     自分自身を小さき者として、貧しい人々を受け入れ、貧しい人々との出会いを大切にするように養成すること。貧しい人々の来訪をじっと待つのではなく、自ら彼らのもとへ出向く用意がなくてはなりません。開かれた世界的な兄弟会を共に築き上げるために私たち自身が福音化される必要があります。

     正義と平和と和解に対して明確な個人的責任を持つように自分自身を養成すること。 

思い切って神に信頼すること

48 物質的・精神的貧しさは、基本的に信仰の目安となります。貧しいということは、希望と絶対的信頼を、物質や自分の能力にではなく神に置いているというしるしなのです。 

49 思い切って神に信頼するということは、心と精神を兄弟的な分かち合いに向けることであり、あらゆる形の自己主張と自己満足の個人主義を乗り越えることなのです。このようにして初めて、私たちは様々な形の貧困を通して私たちを問い質している世界の緊急問題に心を開くことができます。すなわち、我々の安全、「誰にもじゃまされない」我々の共同生活、それらはあまりにも「ブルジョワ的」で消費主義と諦めの精神に毒された生活ではないか、と(すくなくとも)論議するようにと私たちを問い質しています。 

50 思い切って神に信頼するということは、まず兄弟共同体の中に、そしてすべての人々との間に信頼と兄弟愛と分かち合いの精神を育むことによって、世間の道ではなく福音的な道を歩むことです。私たちは個人的にも共同体としても、自分の物を集めるのに夢中になっていて、兄弟たちに対しても、周囲の人々に対しても公正さを欠くことがしばしばあります。 

51 今日、フランシスカンの神中心の単純さは単なる「価値」ではなく、特に優れた証しであり、まことの解放への道なのです。 

W.養成と学問(nn.124-138; Att.4) 

52 最近、本会の文書は教会の関心事を取り上げながら修道会(つまり本会)の将来が、生活に密着した初期養成と生涯養成のにかかっていることを繰り返し述べています。初期養成は終生続けられるべきものであり、生涯養成は絶えず初心に帰るべきものであることを理解し、従って、そのように語り、証しすることができるならば、召命の成長と信仰の成長の本当の意味を理解することができます。 

なぜ自分を養成するのか 

53 私たちは「養成中」です。それは私たちが、神と神のみ旨を絶えず探し求める旅の途上にあるからであり、私たちを取り巻く世界が変わるにつれて、わたしたちも変わるからです。私たちは新しい状況に合わせて、自分の福音的な応答の仕方を絶えず変えてゆくように求められています。神に目を注ぎ、情熱をもってキリストに従うことが大切です。すべての召命は宣教のための派遣でありますから、私たちは具体的な文化的・社会的な状況の中で真剣に生きている人々のために情熱を傾けなければなりません。 

54 私たちは「養成中」です。それは私たちの召命が「情熱度の高さ」がなければ成長しないものだからです。従って、私たちは常に熱心に主のみ言葉に耳を傾け、御聖体のうちにまします主によって養われ、主からの思いがけない呼びかけに対して常にふさわしい応答ができるように努力しなければなりません。こうしたことはすべて、「目覚めて祈る」時に、そして、注意散漫や誘惑を克服できる時に初めて可能となります。これは、年齢や時間、文化に関わらず求められている義務です。これは、時代を超えてすべての兄弟に求められていることです。だからこそ、養成が必要なのです。 

55 私たちは「養成中」です。なぜなら絶えず「変革」されている兄弟的生活の原動力がそれを必要とするからであり、生活様式forma vitae と私たちのアイデンティティーのデータを大切に守りながら、内と外の関係の新しいバランスを絶えず求めていかなければならないからです。私たちの奉献生活がどのように変わったかを示すためには、最近のいくつかの変化を下記のことと比較しながら思い出せば十分でしょう。 

     第二バチカン公会議で示された今までとは異なる奉献生活のアイデンティティー;

     新しい人間観が生まれたために、つまり新しい文化的・社会的・宗教的要求が生じたために、私たちの日常的な在り方を会全体として見直す必要があること;

     奉献生活者の減少と会員の高齢化が進んでいる一方で、教会と世界では司牧的・社会的要求が前にもまして高まっていることに対し無力であること;

     グローバル化した世界にはびこる冷たく、無関心な世俗主義;

     私たちの和解と平和への努力を無にするような分裂や不和、戦争の増加;

     自分たちが忠実に生きていることを若い兄弟たちへ上手く伝えられないでいる年配の兄弟たち。 

56 私たちが自分を養成するのは、自分の召命を喜びと充足をもって生きたいからなのです。このような自覚がなければ、私たちの召命の行く末には破滅的な状況が起こり得ます。 

どのように自分を養成するか 

57 この問いに答えるのは簡単ではありません。誰でも自分独自の個人的でかけがえのない「聖なる歴史」を持っています。それぞれの人が自分独自の召命を持っています、たとえ同じ生活設計の中で主に仕えるという務めを他の兄弟たちと分かち合っていても、です。 

58 養成は、それが現実的で生き生きとしたものになるためには、神と人間の共同作業でなくてはなりません。すべては、私たちの探求を受け入れてくださる神から始まります。そして人間は心と精神と命を尽くして、神のみ旨を受け入れて自分のものとするように努め、定期的に自分を新しくすることによって、神に応えるのです。粘り強く私たちに出会うために出向いて下さり、私たちをあるがままに愛してくださる神のご計画に徐々に自分を参加させることによって、私たちは自分を養成するのです。 

59 従って、養成は、共通のフランシスカン・アイデンティティーとして下記の要素を含むものでなくてはなりません: 

     イエスに従う体験;

     フランシスコの生き方、生活「スタイル」に基づくこと;

     現実の世界で。 

60 養成を、やる気のない、つまらない義務的な「組織(structure)」にしないためには、上記の要素を盛り込むことが非常に重要です。毎日の生活に影響を与えるために、養成は人間的、キリスト教的であると同時にフランシスカン的な体験でなければなりません。そしてどの体験も、兄弟各人の召命の歩みと今現在ある兄弟会を考慮に入れた前向きのプロセスでなければなりません。 

養成の環境 

61 第一の基本的な環境とは、個人(personの環境です。つまり、その「人」が神の前にかけがえのない個人として、自分独自の歴史と感情、そして、自分自身や他者や神と平和な関係を築く能力を持てるような環境です。兄弟各人の「基本的枠組み」を絶えず組み立て強化することは最も重要な課題であり、召し出しを受けた人がその修道生活で体験する予期せぬ出来事に伴うものです。 

62 養成のためのもう一つの「本来的」環境は、兄弟体(fraternityです。すなわち、対話と神中心の共同体であり、それは無条件の受容と慈しみ、そして、ゆるしという福音的な特徴を持っています。 

63 それは、引きこもって自分の殻に「閉じこもる」誘惑に屈せず、宣教活動に励むことのできる兄弟共同体であり、この世の問題に直面することを恐れず、常に「最前線」にいて和解と慈しみと愛を証しする兄弟共同体です。それは、この世にあるが、この世のものではない兄弟共同体なのです。 

養成の質 

64 ここ数年間、私たちは生涯養成にはそれほどではありませんでしたが、初期養成にはかなりの努力を注いできました。しかし、歩むべき道のりはまだまだ遠いのです。私は総会への報告書の中で、乗り越えるべき抵抗について取り上げています。たとえば、もっと深いところに根ざしたフランシスカンの養成、修道院長と養成担当者の養成、養成の各段階の連続性と関連性、初期及び生涯養成の連続性と関連性、個々人への霊的同伴、など。しかし、管区や会全体の姿を本当に変えることのできる重大なポイントはもっとずっと深いところにあります。 

     養成と信仰と神の探求は相関関係にあり、私たちの召命を守り、生き抜くために最優先されるべきものであることをしっかりと認識する必要があります。これは私たちが最大限の努力を払うべき優先事項です。

     養成とは、最初から宣教(missionary活動です。つまり、福音化(evangelization)のあらゆる形態における宣教そのものです。私たちは管区の組織を考えて養成されているわけではありません。神の国のためにいつでも宣教できる奉仕の精神をもって自分の召命を強化するために養成されているのです。後で「出かける」ために、「閉じこもって」養成されているのではありません。

     自由新しい修徳(asceticism)に向けて養成される(また、養成する)ことが必要です。私たちを取り巻く社会環境では、過重労働、傷つき成熟していない情緒、消費主義などがはびこっているので、私たちが養成しようとしている修徳は必ずしも、「苦行」や自己犠牲の禁欲主義ではありません。むしろ、あらゆる種類の盲目的崇拝や麻薬(アルコール、スピード、性急、騒音、目覚しい結果を手短に求めることなど)、依存症(マスメディア、余分な持ち物、快楽主義など)からの解放です。私たちが今日養成を目指している修徳は、どのように、また、なぜ使徒職を行なうのか、どのように時間を使うか、休息・沈黙・内省・平和のための、また、神の現存に耳を傾け、真の深い兄弟愛の関係を築くための場所をどのように見つけるかを知ることが主眼となっています。 

学問 

 「本会の組織は二本の柱の上に建てられています。すなわち、聖なる生活と知識です」(Thomas of Eccleston 

65 この数年間、学問の発展のために皆様が力を尽くしてくださったことは、私の報告書にはっきりと書いておきました。様々な大会や会議、新しい先生、PAA(教皇庁立聖アントニオ神学大学)の強化、諸研究機関の相互間およびPAAとの連携、すべての管区との協力など。感謝しています。 

66 今後のさらなる課題でもある二つの出来事についてお話したいと思います。一つは、「フランシスコ会学問綱領」(Ratio Studiorum OFM)の出版(日本語未翻訳)です。この「学問綱領」はそれぞれの管区で具体的に適応させるものです。もう一つは、エルサレム聖書研究所での新しい聖書考古学科の設立です。どちらも、教会と本会がフランシスカン家族のすべての管区とすべての兄弟に託している課題です。これら二つの課題のために最前線で働いている兄弟たちに協力、支援、同伴する心構えが私たちにあるかどうかを評価しなければなりません。基本的には、本会に勢いと熱意を取り戻すことのできる私たちの生活の知的側面を発達させ、深めてゆくことが大切なのです。教会は私たちにこう語っています。「学問は対話と協力を促す刺激であると同時に、判断力を養う訓練であり、複雑な現代社会における神の現存と働きを絶えず探し求めてゆく途上での観想と祈りを促す刺激である」(VC 98)。このような知的方面の様々な活動によって自らを評価するのは私たちの責任です。 

反省のために 

67 a)個人的・兄弟共同体的レベルで、自分の在り方をグローバルに再構築するためには、回心、つまり全般的な「見直し」(revision)が必要です。私たちの活動に幾分長めの猶予期間(moratoriumが欲しいという要望が高まっています。それはそれで成果があるのでしょうが、問題はどのように実践するかです。 

b)日々の聖体祭儀や典礼、個人的にまた共同体として、時には他者をも交えての神のみ言葉の祈りを込めた朗読(Lectio Divina)は、祈りの生活に新たな深みを増し加え、日常生活をいっそう調和の取れたものにしてくれます。このことを兄弟各人や各兄弟共同体に自覚させるにはどうすればよいでしょうか。 

c)混合修道会(Mixed Institute):聖職者の役目を強調せずに、司牧活動への召し出しを受けている者として、どうすれば小さき兄弟としてのアイデンティティーを管区の中で成長させることができるでしょうか。 

d)誓願を立てた時に守ることを約束した会憲38−54条を真剣に受け止めるということは、管区や会全体における毎日の生活様式を(時には徹底的に)変えることを意味しています。これは不可能なことでしょうか。 

e)教会や多くの貧しい人々が私たちに期待しているまじめで質素な精神を育んでゆくにはどうすればよいでしょうか。 

f)特に、小さき者の精神が失われてしまったか、あるいは、兄弟を孤立させて近付きがたい存在にしてしまった場合の私たちの使徒的・社会的活動のフランシスカン的な意味を見直すこと。各地域、管区、会全体それぞれのレベルで優先順位を見直す必要があるでしょう。 

g)私たちはこれからも、荘厳誓願もしくは有期誓願を立てようとする各兄弟の話に耳を傾け、彼らの意識を高める必要があります。それこそが深い意味で養成と言えるでしょう。これは私たちが真っ先に取り組まなければならない課題です。では、どのようにしたらよいのでしょうか。 

提案 

     生涯養成と若い荘厳誓願宣立者の養成(個々人への霊的同伴)(139) 

     修道院長の養成(140

     養成担当者の養成(141

     特にフランシスカン養成(142

     学問の奨励(143

     フランシスコ会の国際会議で使われる言語(イタリア語、スペイン語、英語)(144