隣人となる

6月3日

アンジェロ 春山 勝美 神父
Fr.Angelo Haruyama Katsumi, OFM
haruyama@netvision.net.il

「アッサラーム アレイコム(こんにちは。時間に関係なく使える)」。エジプト旅行の際、この言葉だけは覚えて行きました。

五十代、必死になって韓国語を勉強しました。自動車運転中はテープを聴き、ハンドルにもハングル文字を書いた紙を貼っての頑張りでした。しかし、その効果は全くありませんでした。この貴重な体験があるので、聖墳墓修道院に勤務するようになっても、共通語のイタリア語、住民のアラビア語、ヘブライ語は勉強しまいと決意しました。この例外として、「アッサラーム アレイコム」は覚えたのです。

エジプトで使ってみました。道ばたで出会った一人歩きの子供に声をかけたら、返事が返ってきました。岩陰で山羊の番をしていたベドインの婦人に呼びかけたら、応えてくれました。そして、タクシーを捜しているのかとも聞いてくれました。男たちがたむろするお茶屋(アフワ)に、声をかけて入ると、だれかれなく、応えてくれました。声をかけると必ず気持ちのいい返事が返ってきます。正確な発音でないことは十分承知しています。見知らぬ外国人から、自分たちのことばらしい?挨拶を受けて、まともに受け答えしてくれる彼らが好きになりました。

旅をしたときはラマダン(イスラム教徒の断食月)でした。ある通りで、搾りジュース売りのお兄さんから声をかけられました。今、ラマダン中だからと言うと、イスラム教徒でなければ、「守る必要はないよ。」と言ってくれましたが、日が落ちたら来るからと言って、その場を去りました。その日のラマダンが明けて、通りに出てみると人々で賑わったいました。オレンジの生ニュースが飲みたかったので、例の店に行きました。あのお兄さんはまだ働いていて、私を見分け、周りの人たちに、「この人はいい人なんだ。」と紹介してくれました。

イスラムの国を旅した人はよく見かけたと思うのですが、男たちが数珠をくくっています。数珠は祈りを数える道具で、英語でロザリオと言います。最近、どのように使うのかとイスラムの友人に尋ねてみました。珠の数は33で、11ずつ、3連です。第一連では「神に栄光(alahakapar)、第二連では「神に感謝(almdolialah)」、第三連は「偉大な予言者(suphanala)」だそうです。

ところで、私がイスラムのロザリオに興味を持ち、アラビア語に似た発音が出来るようになったのを見て、例の友人は、近くにいたイスラム教徒のところに連れて行き、イスレムの教師になったと言ってくれました。

「アッサラーム アレイコム」にしろ、「ラマダン」のまねごとにしろ、「ロザリオ」にしろ、共通していることは、人が大事にしているものを私が評価し、それを受け入れるとき、人も私を受け入れてくれると言うことです。

それに、イスラム教徒のロザリオで思い起こしたことがあります。以前、福岡教区高宮教会に勤務していた時、友人の神父様が話してくたことです。「母はよくロザリオの祈りをしていた。しかし、年を取り、「めでたし聖寵満ちみてる…(天使祝詞)」を完全に唱えられなくなってしまった。そうこうするうちに、「天使祝詞」の代わりに「ありがとう、ありがとう…」と唱えるようになった。」とのことでした。このお母さんに倣って、イスラム教徒のように、「神に栄光」、「神に感謝」と祈り続けることをどうとらえたらいいでしょうか。確かに、予言者マホメットを称えることは出来ないでしょう。しかし、私たちが「栄光」や「感謝」をささげる「神」は、イスラム教徒の「アラー」であり、「イエスの父、私たちの父、イエスの神、私たちの神(ヨハネ20.17)」なのではないでしょうか。違いを強調して関係を拒否するか、共通項をとって関係を保ち、発展させるか、日常の問題でもあると思います。


付記:カトリックのロザリオはマリア様への祈りを唱えながら、救い主キリストの救いの出来事を黙想する祈りです。浄土宗の数珠は百八の煩悩を取り除くため、「南無阿弥陀仏」を108回唱えるための道具です。祈りを数える道具として共通しています。