聖母休憩記念聖堂

12月10日

アンジェロ 春山 勝美 神父
Fr.Angelo Haruyama Katsumi, OFM
haruyama@netvision.net.il

遺構   4月3日、イスラエル軍がベトレヘムへ侵攻した時、住民に混じって武装したパレステイナ人がキリスト誕生の聖地に逃げ込みました。そして、「包囲」と「立て籠もり」が始まりました。内部ではカトリック、ギリシャ、アルメニアの修道士たち、それに、逃げ込んだパレステイナ人は、長引く包囲で、蓄えの食物、飲料水は底をつき、飢餓の危険にさらされ、また、イスラエル軍突入の恐怖におびえ、38日が過ぎました。幸い、国際社会の調停が功を奏し、聖地は解放されました。

その折り、感謝の巡礼をしました。エルサレムからヘブロン街道を歩き出して一時間。ベトレヘムを目前にしたところで、道路沿いに工事現場を思わせる柵がありました。ふと見るとモザイクがありました。もしやと、辺りを見渡すとありました。八角形の遺構です。
(写真:遺構)

カファナウムビザンチン最盛期には「記念堂」は八角形で表現するという建築理念が定着していたのです。ガリレアのカファルナウムを発掘調査していた時のことです。地表の下に五世紀の「八角形聖堂」跡がありました。その下に四世紀の「聖堂」跡がありました。さらに掘り下げると一世紀の「住居」跡がありました。
(写真:カファナウム クリックで大)説明:赤は一世紀の住居跡;は四世紀の聖堂跡;黄色は五世紀の祈念堂跡。

発掘した考古学者の説明です。住居跡はキリストがガリレア宣教の拠点としたペトロの家で、キリスト教時代になって、ペトロの家の跡地に信者のための聖堂が建ち、その後、ビザンチン最盛期に、キリストのガリレア宣教拠点を記念するため「八角形記念聖堂」に建て替えたと言うものです。ルーツがキリスト復活大聖堂内の「八角形キリスト埋葬・復活記念聖堂(お墓)」であることは確かです。

   そして、聖母休憩記念聖堂ですが、言い伝えはこのようなものです。ヨゼフは戸籍を登録するため身ごもっていたマリアを伴い、ガリレアの町ナザレからダビデの町ベトレヘムへと旅立ちました。エルサレムを過ぎてベトレヘム休憩の岩を目の前にした時、ヨゼフはマリアの疲れを気遣い、一息入れることにしました。その際、マリアが腰を下ろした岩を記念するのがこの聖堂です。
(写真:休憩の岩)。

   私はこの言い伝えに感動しています。場所はちょっとした上り坂です。数百メートル先にはベトレヘムのパノラマがひろがります。
(写真:ベトレヘムパノラマ)。元気な者にとっては休みを取る場所ではありません。しかし、身重なマリアには「あと一息」と言われても、その一歩が出ませんでした。また、ヨセフは自分のペースで、マリアの疲れを無視し、一気にベトレヘムへと急ぎませんベトレヘムパノラマでした。状況からこのようなことが推し量れます。

   人々は聖母のナザレからベトレヘムまでの難儀な長旅に思いを馳せました。そして、神が人となり、おとめマリアから生まれたと言う「受肉の信仰」を身近な日常生活の一コマとして受け止め、味わっていたのだと思います。

付記:法隆寺の夢殿や西円堂、興福寺の南北の円堂が祈念堂を八角形にすると言う建築理念に基づくのもでることには驚きます。夢殿は斑鳩の宮の跡地に聖徳太子を記念して建てられました。また、藤原氏の氏寺である興福寺の円堂の一つが藤原不比等を記念するためのものでした。