ギリシャの十字架称賛祭日

10月1日

アンジェロ 春山 勝美 神父
Fr.Angelo Haruyama Katsumi, OFM
haruyama@netvision.net.il

写真1:G総大主教接吻  昨年9月14日、「十字架称賛の祭日」を載せました。その際、十字架「称賛」とすべきところを十字架「賞賛」と書きました。何回か読み返したのですが、今日まで気づきませんでした。なんとも恥ずかしいしだいです。お許しください。

   さて、今回はギリシャオーソドックスの十字架称賛祭日をお伝えします。ユリウス暦9月14日は私たちの9月27日でした。前日の26日は「アペルトツラ」(Apertura)となり、日曜日と同じく、修道院ミサは1時間早まり、5時半でした。これは7時からのギリシャの祭儀に「お墓・復活」聖堂を開放するためです。ギリシャはこの祭儀で、コンスタンテイヌスの、壮大で華麗な「救い主イエスキリストの死と復活を記念する陵」(Mausoleum)が335年に竣工されたことを記念します。そしてこの日を大聖堂献堂記念日としています。
写真2:祭儀用十字架
   そして今年、気づいたことがあります。キリスト復活大聖堂ではカトリックとオーソドックス(正教)諸教会がスタトツス・クオ(Status quo)に従って、決められたところで、決められた時間にそれぞれの祭儀を行っています。当然、大聖堂献堂記念日をそれぞれの教会が祝っていると思っていました。そうではないのです。祝うのはカトリックとギリシャオーソドックだけです。聖十字架発見と十字架称賛はすべての教会が祝いますが、アルメニア、コプト、シリアにはこの大聖堂献堂記念がないのです。

ギリシャオーソドックスエルサレム総大主教区はビザンチン時代からの正当性、継続性をうたい、今は跡かけらもない、コンスタンテイヌスの陵がこの地にあったという史実に基づいて、大聖堂献堂記念日を祝います。カトリックは現大聖堂が十字軍によって献堂(1149年)されたものとして献堂記念日を祝います。アルメニア、コプト、シリアはエルサレムに総大主教区を持ち、大聖堂内で固有の祭儀を行いながらも、大聖堂が自分たちのものと主張する根拠がないので、大聖堂献堂記念日をキリスト復活大聖堂内で行うことが出来ないようです。

写真3:コプト総大主教接吻   13日(26日)午後2時、ギリシャ総大主教の荘厳入堂で、十字架称賛の祭日は始まりました。一行が総大主教館を出ると同時に、大聖堂鐘楼の鐘が鳴り出します。トルコ時代のコスチュームを着けた露払、聖職者、総大主教と続き、通路いっぱいに広がって、大聖堂に向かいます。この間約5分、鐘は鳴り渡ります。今年は、ガザ、西岸、ヨルダンからの聖職者、巡礼団の参列がなく、こじんまりとしたものでした。

   総大主教は出迎えの聖職者たちが控える「遺体を清めた石」の前で、祭服に着替えます。香炉を渡された総大主教は、まず、「聖なる石」に献香し、次いで、「祭儀に使う典礼書」、参列者にも献香します。香炉を助祭に渡し、「聖なる石」に接吻して、「主の十字架の死」に思いをはせます。
(写真1:G総大主教接吻)。そして、立ち上がり、「祭儀用の十字架」を手にして、その場を離れます。(写真2:祭儀用十字架)

   引き続いて、コプト総大主教一行が、次いで、シリア総大主教一向がシンプルな崇敬を済ませて、それぞれの聖堂に向かいます。(
写真3:コプト総大主教接吻)

   翌14日(27日)は十字架称賛の祭日です。、この日もアペルトツラで、私たち写真4:アルメニア絵は5時半のミサ、7時にはギリシャが祭儀が行えるように場を譲りました。彼らの祭儀は7時から始まって10時まで延々と続きました。この祭儀にはカトリコン(ギリシャ聖堂)がいっぱいになるほど信者が参列していました。顔見知りのロシア正教信者の姿がありましたので、この日大聖堂で十字架称賛を祝うコプト、シリア以外の正教信者が参列していたようです。アルメニアは29日に自分たちのカテドラルで十字架称賛の祭儀をすると聞きました。

   ローマ時代、極悪人処刑の刑具十字架が崇敬されるのは私たちの救いと結びついたからです。聖へレナによって発見された聖十字架は息子、ローマ皇帝コンスタンテイヌスの建てた陵のカルヴァリオ、キリストが処刑された同じ場所に立てられました。そして、次第に、エルサレムの信者は救いの出来事を十字架で表すようになりました。そ写真5:行列して、これが、世界からの巡礼者によって、それぞれの国に、地方に広まって言ったと考えています。

   614年、ササン朝ペルシャはパレステイナを略奪した際、キリスト信者が大事にする十字架を「勝利品」としてペルシャに持ち帰りました。異教徒のペルシャ人にとって聖十字架は薄汚い処刑具の一つでしかないはずです。これが、「勝利品」となりえたのは「十字架」がキリスト教国ビザンチンのシンボルとなっていたからではないでしょうか。

   628年、東ローマ皇帝ヘラクレウスはペルシャを破り、聖十字架を取り戻し、凱旋しました。凱旋軍がアルメニア領内を通過した出来事を伝える絵が聖ヘレナ聖堂にあります。
(写真4:アルメニア絵)
写真6:聖十字架
   629年9月14日、皇帝自身が十字架を背負い、エルサレム東門(黄金門)から入り、聖堂となったカルヴァリオに運び入れました。そのとき以来の聖十字架の一部を、十字架称賛のこの日、総大主教が頭に載せ、大聖堂内を行列し、カルヴァリオへ運びます。(写真5&6:G十字架称賛行列;G聖十字架)。そして、十字架称賛の祭儀は終わります。(写真7:ランプのカルヴァリオ)

   そして今年も騒動がありました。13日午後、(26日)入堂を済ませた諸教会では夕写真7:ランプのカルヴァリオの祈りが始まりました。そして、助祭たちは、ギリシャ、コプト、シリアの順で、大聖堂内聖堂を献香して回りました。
(写真8:Gカトリック祭壇献香)。夕食時、ギリシャとシリアとの間で騒動となったことが話題となりました。この時はいつものことなので聞き流していました。翌日、ギリシャの信者と出会い、昨日の騒動の話となりました。原因はと聞くと、ギリシャの祭儀が終わる前に、シリアがカルヴァリオで献香したからと聞きました。

腑に落ちなかったので、私たちの香部屋係りに質しました。ギリシャ側のカルヴァリオで騒動となったとのことでした。定められた位置を半歩踏み出しても、黙っていないギリシャですから、と納得しました。しかし、大聖堂が閉門した後、コプトの修道士と出会ったので騒動のことを質してみました。すると、シリアはスタトツス・
写真8:Gカトリック祭壇献香クオ(status quo)に基づき、この日はカルヴァリオに登り、献香できると主張し、ギリシャは現行のスタトツス・クオでは許されないと主張しているからだとのことでした。

   私がこの場でこの問題を取り上たのは、「出来事」の「正確な伝達」と「情報」の「批判的受容」と言う現代的問題がここにもあると考えたからです。