カイザリア

5月27日

アンジェロ 春山 勝美 神父
Fr.Angelo Haruyama Katsumi, OFM
haruyama@netvision.net.il

 5月23日(木曜日)は聖墳墓修道院の研修旅行日でした。キリスト復活大聖堂で勤務する修道士たちは24時間勤務ですので、個人で休暇は取れても、修道士たちが一斉に休暇を取ることが出来ません。本部修道院の神学生たちがこの状態を哀れんで、年に2度、彼らの休講日、私たちの職務を代行してくれます。お陰で、この写真1:水道日、カイザリア、ハイファ、アッコ、ヨルダン渓谷の遺跡めぐりを楽しむことが出来ました。

前日22日、午後9時半頃、テル・アヴィヴ(RishonLetzion)でベトレヘム難民キャンプ出の16歳の少年、Isa B’dinの神風テロがありましたが、早朝の出発でしたので、事件のことは知りませんでした。アッコからヨルダン渓谷に向かう途中、交通事故で渋滞となったので、運転手の判断で迂回することになりました。右手にジェニンを見たとき、これから、ナブルス、ラマッラを抜けてエルサレムに帰るのかと期待とも、不安とも取れる、つぶやく声がありました。しかし、車はサマリアとは反対方向の左に曲がり、メッギドの辺りで予定のハイウエイに入り、ヨルダン渓谷へと進みました。途中、2度ほど、検問のための渋滞にあいましたが、停止させられることなく、通過しました。写真2:溝

カイザリアには数年前、長崎純心聖母会巡礼団に同行して行きました。その時は、再建された劇場に案内されただけでした。しかし、今回は、ローマ都市カイザリア、ビザンチン時代、十字軍時代のカイザリアを知ることが出来ました。

カイザリアと言えば、ローマ水道です。20km先の水源から半分の10kmは地下トンネルや水路で、残りの半分10kmがアーチ水路です。
(写真1:水道)。水路には溝が二つあり、異なる水源からのものです。写真のものはヘロデが造り、その左、見えませんが、海よりのものはハドリアヌスが付け加えたものです。(写真2:溝)。それに、これとは別に、もう一つの水道がありました。

写真3:岬宮殿跡写真4:岬神殿図劇場の客席から
見て、右手の海岸に「岬宮殿」(写真:岬宮殿跡)がありました。このようなものと想像されています。(写真4:岬宮殿図)。海辺にもこのような建物がありました写真6:ポンシオピラト写真5:海辺宮殿跡(写真5:海辺宮殿跡)。また、ここにはローマ総督ポンシオピラトの名が刻まれた大理石が展示されています。(以前は入り口のところにありました)。これはコピーです。ここで発掘された実物はエルサレムのイスラエル博物館ビザンチン・ローマ展示室にあります。(写真6:ポンシオピラト)

この遺跡の一角、港と向き合うところに、使徒パウロがローマ皇帝に上告したことを思い起こさせる案内板があります。
(写真7:使徒パウロの監禁)。使徒パウロがエルサレム神殿で祈っているとき、アジア宣教の成功を妬むユダヤ人は民衆を扇動し、パウロを捕らえ、殺そうとしました。千人隊長によって群集から救い出されましたが、パウロは鞭打たれそうになったので、ローマ市民であることを表明し、衆議会で弁明する機会を持ちました。しかし、その場でも、民衆の騒ぎは収まらず、身の危険が迫ってきたので、カイザリアに移送されることとなりました。総督フェリックスはパウロの公の弁明、ひそかな面談で、無実を確信しながらも、ユダヤ人の機嫌をとるために、監禁したままでした。そ写真7:使徒パウロの監禁の後、フェストが総督として着任し、パウロの問題を処理しようとしたとき、「ユダヤ人の律法に対しても、神殿に対しても、ローマ皇帝に対しても、何一つ罪を犯したことはありません。・・・しかし、もしこの人たちの訴えることになんの根拠もないとすれば、歓心を買うために、だれもわたくしを彼らに引き渡すことは出来ません。私はローマ皇帝に上訴します(使徒行録25.8-12)」。使徒パウロはローマへの船出まで、ここに監禁されていました。

写真「パウロの監禁」の赤褐色のグランドがローマ戦車競技場、右手の手前から貯蔵庫、観覧場、ローマ風呂施設。中央には、ビザンチン時代、エジプトのアレキサンドリアに次ぐ、3万部を蔵書する大図書館がありました。7世紀後半、イスラム教徒となったアラブ人の侵略に遇い、アレキサンドリアと共にカイザリアの、貴重な写本は灰燼と化してしまいました。向かいの岬左、大きな建物が十字軍要塞、十字軍撤退後、モスクとして使われました。

写真8:しぶき写真9:アウグスト神殿跡ヘロデの港はこの防波堤の先に広がっていました。
(写真8:しぶき)。右手が波止場になっていて、アウグスト神殿へと装飾された階段で結ばれていました。(写真9:アウグスト神殿跡)

アウグスト神殿の裏手の高台に十字軍時代のカテドラルがありました。
(写真10:カテドラル図)。以前は、ビザンチンを滅ぼしたイスラム教徒のモスクでした。(写真11:十字軍カテドラル跡)。向かって、左手に、規模の大きい、6世紀の八角祈念堂跡があります。(写真12:八角祈念堂跡)。案内板には、ある聖人か殉教者を記念する聖堂とあります。303年6月、聖プロコピウスが殉教していますので、このカイザリア最初の殉教者を記念していたのかもしれません。
写真10:カテドラル図写真11:十字軍カテドラル跡
しかし、私は、最初の異邦人改宗者、百人隊長コルネリオの住居跡を記念したものと思います。使徒行録によると、最初の福音宣教者は助祭の写真12:八角祈念堂跡フィリッポでした。(8.40)。カイザリアにはユダヤ人の街がありました。そして、ここではいつも、異邦人との緊張関係がありました。カイザリアのシナゴグがローマ人に涜聖されたことが、紀元66年のユダヤ人反乱の原因の一つとなったことが知られています。

さて、使徒行録10章にイタリア隊百人隊長コルネリオの改宗のいきさつが記されています。

ある日の午後3時ごろ、コルネリオは幻のなかで「ヨッパに人を遣わして、ペトロと呼ばれるシモンという人を招きなさい」と告げられます。翌日、ヨッパでペトロが祈り、脱魂状態になっていると、「よすみをつるされて地上に降りてくる大きな敷布のような容れ物」をみます。中には、地上のあらゆる四つ足や、はうもの、空の鳥などがありました。時に、「さあ、ペトロ、ほふって食べよ」と言われます。ペトロが「主よ、そんなことはできません。わたしは、今までに一度も清くないものや、汚れたものを食べたことはありません。」と答えます。「すると、・・・『神が清めたものを、清くないなどと言ってはならない。』」と言われます。このようなことが3度ありました。何のことかと考え込んでいると、コルネリオからの使いが到着しました。「次の日、彼らがカイザリアに入ると、コルネリオは親戚や友人たちを招いて、家で一行を待っていました。」「すでに集まっていた多くの人々を見て、ペトロは彼らに言った。『ご存じのように、ユダヤ人が他国人と交際したり、彼らを訪問したりすることは許されていません。しかし、神はわたしに、どんな人でも、清くないもの、汚れたものと呼んではならないと、お示しになりました。」続けて、ペトロがイエスに就いて話していると、「みことばを聞いていたすべての人々のうえに聖霊がお降りになった。・・・そこで、ペトロは『この人たちは、わたしたちと同じように、聖霊を受けたのですから、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが拒むことができましょうか』と言って、イエズス・キリストのみ名によって洗礼を受けるように命じた。」とあります。その後、エルサレムのユデア・キリスト信者の間で、使徒ペトロのこの行為は批判されます。ペトロは信者に説明します。「もし、神が主イエズス・キリストを信じたわれわれにくださったのと同じ賜物を、彼らにもくださったのなら、わたしごときものが、どうして、神に逆らうことができましょうか。」と結ぶと、「一同はこれを聞いて静まった。神をほめたたえて、『では、神は異邦人にも、いのちにいたる悔い改めをお与えになったのだ。』」(使徒行録11.17-18)とあります。

エルサレムの最後の晩餐の部屋で祈る弟子たちに、聖霊が降り、教会が誕生したように、カイザリアで、祈る異邦人に同じ聖霊が降り、ここが最初の異邦人の教会となりまし写真13:十字軍城門た。それで、コルネリオの邸宅跡をビザンチンの信者が八角の祈念堂で、この偉大な恵を後世に伝えたものと考えます。

ビザンチン時代、各地に八角祈念堂が建造されました。そして、世界に広がっていきました。カファルナウムの八角聖堂はイエスのガリレア宣教の拠点となった、ペトロの姑の家と説明されています。前回の「ベトレヘム巡礼」で記した「八角聖堂」は 身重のマリアがナザレから、ベトレヘムへのきつい旅の途中、ベトレヘムを目の前にして、休息のため、腰を下ろされた「石」を大事にしていたこの地の信者の信心に基づくものです。聖地に進攻してきたイスラム教徒も、預言者マホメットの修行の場所を「岩のドーム」として、八角で表現しました。ほぼ同じ時期、日本でも、法隆寺の夢殿がこの様式で建造されました。夢殿は聖徳太子のゆかりの地、斑鳩の宮跡地に、聖徳太子を記念して建てらたからです。(天平11年、739年)。
写真14:十字軍城壁
そして、も一つ、「カイザリア」にかかわることで、キリスト信者にとって、日常的となったことを取り上げたいです。195年、カイザリア会議で、復活祭を日曜日に祝うことが決定されました。

遺跡を出るには、ここから、十字軍の城門
(写真13:十字軍城門)を抜け、十字軍の城壁(写真14:十字軍城壁)を後にします。