聖母被昇天

8月6日

アンジェロ 春山 勝美 神父
Fr.Angelo Haruyama Katsumi, OFM
haruyama@netvision.net.il

 ゲッセマネと言えば、福音書が伝えるイエス逮捕直前の「苦悶の祈り」を連想すと思います。「父よ、み心ならば、この杯をわたしから取りのけてください。……イエズスは苦しみもだえ、いよいよ熱心に祈っておられた。汗は血のしずくのようになって地にしたたり落ちた(ルカ22;39-46)。」

この地に、ビザンチン時代に大聖堂が建ちました。イスラム教徒に破壊された後、十字軍は大聖堂を再建しましたが、十字軍がエルサレムから駆逐されると、再び破壊されました。1924年、フランシスコ会はビザンチンの時代の大聖堂礎石の上に、現代の「苦悶の大聖堂」を再建しました。通称、万民教会と呼ばれています。
写真1
日本からの巡礼団のほとんどはオリーブの老木を見、大聖堂で祈って、ゲッセマネを去って行きます。残念なことです。と言うのは、ここには、他に、イエスが逮捕された洞窟と聖母マリアのお墓、被昇天の聖地があるからです。

聖母マリアは十字架のおん子から使徒聖ヨハネに託されました。「そのときから、この弟子はイエズスの母を自分の家に引き取った(ヨハネ19.27)。」とあります。ビザンチン時代の信者は「ハギアシオン」(
参照:教会の誕生したところ)の北西のところ、現在の「永眠教会」の辺りが、聖母が生活していたところと考えていました。当然のこととして、聖母が息を引き取ったのも、このところとみなされました。(写真1:永眠の場

ここは城内でしたので、埋葬できず、弟子だちは悲しみのうち、遺体をゲッセマネに運び、そこに埋葬しました。その日は8月15日でした。(
写真2:眠マリア絵)マリア様についての神学的理解はキリスト論の当然の帰結です。復活したイエスは神として信仰されていましたから、イエスの母は神写真2の母と呼ばれました。

しかし、四世紀初頭、アリウスが、「イエスは受胎においては人間であり、胎内で誕生前、聖霊に満たされて神となった」と主張したことから、キリスト教会は大混乱に陥り、コンスタンテイヌス皇帝の斡旋でニケヤ公会議が招集され、アリウス説は異端と断罪されました。

五世紀、コンスタンチノープルのネストリウスがアリウス説を蒸し返しますが、マリア様を「神の母」と呼びなれていた信者はネストリウスの説教に惑わされず、逆に、アフリカの司教たちの応援を得て、ネストリウスを追放しました。

マリア様についての信心はこの時代に確定しました。オーソドックス諸教会も8月15日に聖母被昇天祭を祝います。ユリウス暦を使っていますので今年は8月28日です。三日前の8月25日、キリスト復活大聖堂前の修道院に安置してあるマリア像を行列を組んで、ゲッセマネのお墓に運びます。

当初は、シオンのハギアシオンから葬送行列として行われたものと思います。ゲッセマネ墓地はビザチン初期には聖母マリアのチャペルとなっていました。現在のものは十字軍が拡張したものです。

時の流れの中、フランシスコ会(カトリック)はここの所有権を確保はしているものの、日常的使用権を失い、ただ、カトリックの聖母被昇天祭の午後、公に、晩の祈りをしています。洞窟の中には、三つの祭壇があります。お墓に隣接した主要祭壇はギリシャとアルメニアが使います。

お墓の裏に、葬送行列で運んだマリア様のご像を飾り、12日間、そこに安写真3置します(
写真3:眠マリア)。この期間中、頻繁にミサが捧げられます。驚いたことに、安置したマリア様のご像の下をくぐる信者がいるではないですか。長野の善光寺の「ご戒壇まわり」を思い出しました。本堂の下に回廊があり、善男善女は暗闇の中、鍵を捜します。この鍵は本尊と糸で結ばれています。鍵に触れ、本尊との結縁(けちえん)で成仏したいとの願望で、今日でも多くの人々が暗闇の中を手探りで進んでいます。写真4

エルサレムの信者も巡礼者も、マリア様の取り次ぎで、おん子の救いに与かりたいと祈りつつ、マリア様のご像の下をくぐりぬけるのかも知れません。それに、よく見かけることですが、ご像、ご絵に直接キスし、あるいは、手で触れて、自分の口に持って行きます。これは、結縁で、聖人たちの功徳に与りたいとの願望の現われかと思います。
写真4:ゲ母子はこのチャペルでもっとも信心を呼んでいるものです。