「聖域なき」補足

7月26日

アンジェロ 春山 勝美 神父
Fr.Angelo Haruyama Katsumi, OFM
haruyama@netvision.net.il

 最近、コロンビアの神父様が聖墳墓修道院のメンバーに加わりました。ある日の食堂での出来事です。ケーキを皿にとって、しばらく立ちすくんでいました。食堂はコ字形にテーブルが並んでいます。その神父様は皆の後ろを通って、自分の席に戻りました。食後の祈りが済んで、どうして遠回りしたのかと尋ねました。神父様は「子供のとき、母から人が話し合っている間を通り抜けてはいけないと、厳しくしつけられた」と。院長と他の神父様が話し合っていたので、「話の空間」を犯さなかったのです。

 福岡市郊外に雷山と言う修験道道場があります。福岡教区高宮教会在任中、火渡りの行があると言うので見に行きました。護摩行がもとになっています。火渡りをするので、野外に祭場が設けられていました。本尊は役の行者、薪が天に積まれ、行者の座が直線上にありました。周りは注連縄で囲ってありました。囲ってあったといっても、行が始まる前は、中に入っても、通り抜けても、誰も何も言いませんでした。

 行が始まりました。カメラを持った男が注連縄をくぐり、本尊と燃え盛る薪の間を通り抜けて来ました。読経していた修験者の一人が大きな声で、注意しました。その男はこちら側で、シャッターを切った後、再び、本尊と薪との間を横切って行きました。例の修験者は読経を止めて、怒鳴りました。男にとっては無形文化財のエヴェントで、写真の被写体なのでしょう。しかし、修験者にとっては「神聖な行」なのです。注連縄内はもっとも神聖な空間なのです。

 「聖域なき」の本文で取り上げましたが、お墓とフランシスコ会聖歌隊席との間は修道院ミサ中と行列中、キリストの復活を記念する時は「神との交わりの空間」とし、「聖域」としています。空間の共有が生活上なくなり、空間の専有が日常的になり、神、見えない存在を認めなくなり、当然なこととして、その方との交わりの場をも意識しない現代はすでに「聖域なき」社会です。