教会が誕生したところ

月19日

アンジェロ 春山 勝美 神父
Fr.Angelo Haruyama Katsumi, OFM
haruyama@netvision.net.il

 過ぎ越しのいけにえがほふられる種なしパンの祭りの日が来た。イエズスはペ写真1:高間テロとヨハネに「行って、過ぎ越しの食事が出来るように用意しなさい」言って、二人を遣わそうとされた。二人が、「どこに用意しましょうか」と言うと、イエズスは仰せになった。「都に入ったら、水がめを運んでいる男に出会うだろう。その男が入る家までついて行って、その家の主人に、『≪弟子たちといっしょに過ぎ越しの食事をする部屋はどこか≫と、先生が言っておられますと言いなさい。』すると、その主人は席の整った二階の広間を示してくれる。あなたたちはそこに用意しなさい。」二人が行ってみると、イエズスが仰せになったとおりであったので、過ぎ越しの食事を用意した(ルカ22.7-13)。イエスと弟子たしが最後の過ぎ越しの食事をしたところです(写真1:高間)

 
写真は「二階の広間」を復元したものではありません。1333年、フランシスコ会がイスラムの支配者から土地を購入し、聖堂、修道院を建てました。現存の建物は、聖堂を建てればイスラム教徒に破壊され、再建すれば土地を没収され、買い戻しては再建したもので、キプロス・ゴッシク様式の聖堂であり、修道院です。そして、1524年、フランシスコ会はイスラム教徒に土地、建物を没収され、この聖地から追放されました。

 キリスト信者が「ここに」こだわるのは、イエスが過ぎ越しの食事の席で「聖体(ミサ)を制定」し、ミサを執り行う為の「司祭職を制定」したところであり、復活したキリストが「最初に、公に使徒団にご自身を現したところ」であり、弟子たちが聖霊を受けて、「教会が誕生したところ」だからです。ユダヤ教徒とイスラム教とがこだわるようになったのは「ダビデの墓」と言われるようになってからです。

 ユダヤ・キリスト信者はエルサレムが破壊され(70年)、ユダヤ人がエルサレムから追放された後も(135年)、住み着いていました。326年、聖へレナがエルサレムに来て、キリスト処刑の十字架を発見したころ、この地に「キリスト信者の小さな教会」がありました。ビザンチン時代になると、「ハギアシオン(聖なるシオン)」の大聖堂が建ちました
(写真2:緑の斜線)。赤の斜線が現在の「聖マリアの永眠教会」です。

 614年、エルサレムはササン朝ペルシャの略奪、放火の被害を受け、1009年、カリフ アル・ハキムはキリスト復活大聖堂の破壊と同時にハギアシオンその他の大聖堂の破壊を命じました。1099年、十字軍がエルサレムを開放し、破壊された大聖堂の再建に取り組みました。この時、破壊されたハギアシオンの基礎の上に、「シオンの聖マリア大聖堂」を再建しました
(写真2:青の斜線)。1187年、サラデインが十字軍を破り、再び、イスラム教徒がエルサレムを支配するようになり、その後、シオンの聖マリア大聖堂は破壊されてしまいました。

 フランシスコ会は破壊された「シオンの聖マリア大聖堂」の南東の部分、「最後の晩さんの部屋(cenaculum)」
(写真2:ハギア図×)の残された外壁を取り組んで、「シオン山修道院」を建てました(写真3:外壁)。写真は回廊の南から撮ったものです。右上部分に窓枠の半分、幅80cm以上の大きな石が「シオンの聖マリア大聖堂」の南外壁です。「ハギアシオン」はこの様な見事な外壁だったと思われます。石の質、また、幅は「西の壁(嘆きの壁)」と同じ物です。外壁の奥が「ダビデの墓」です。

 フランシスコ会修道院時代の「間取り」を説明します。
「写真1:高間」の右奥に階段が見えます。その先の部屋(東)が「聖霊降臨の聖堂」です。左(北)の舞台(見えません)にはイスラム教徒によって作られたダビデの記念碑がありました。右(南)にあるのが、ミラブでメッカの方向を示すものです(一部見えます)。これらはイスラム時代にモスクとして使われていたなごりです。
写真4:晩餐下
 右手前(南西)に下に降りる階段があります(見えません)。
「写真4:晩餐下」手前のホール(西)は、古くは過ぎ越しの食事前に、主キリストが弟子たちの足を洗ったところで(ヨハネ13.1-15)、修道院となってからは、最初、兄弟たちの寝室、その後、巡礼者たちの宿泊所、そして、聖フランシスコ聖堂でした。壁の先(東)(入り口が見えます)は一段高くなっていました。古くは、キリスト逮捕、処刑で恐れた弟子たちが逃げ潜んでいたところで、復活した主イエスが使徒団に公に現れたところです。修道院時代では左の部屋が「ダビデとソロモンの墓」で(現在はダビデの墓)、右が「聖トマス聖堂」でした。

写真3:側壁 フランシスコ会は、支配者が代わっても、まだ、「シオン山修道院」に戻ることが出来ません。1948年まで、キリスト信者とユダヤ人は異教徒としてイスラムの聖地:「ダビデの墓」に近づくことが出来ませんでした。やっと、イスラエル支配となってから、すべての人に開放されました。それでも、イスラエルはキリスト教祭儀を許しません。例外として、フランシスコ会が「聖木曜日」と「聖霊降臨の日」に「夕の祈り」を公にすることが許されています。そして、昨年、2000年3月24日、イスラエル政府はヨハネパウロ二世が「聖体制定の部屋」で、ミサを捧げることを許しました。このシオン山修道院の問題は「聖地の問題」のほんの「一つ」です。