主に向けられた心

フランシスカン生活の観想的次元についての委員会からの勧告

  T. 観想的次元

1. はじめに


ある管区長との会話の中で、フランスのある大きな町の枢機卿大司教は、フランシスカンが彼らの生活の観想的次元について語るのに驚いたそうです。彼にとって(私たちについての)そのような次元はかつて話題になったことがないようでした。このような反応は私たちに深く考えさせ、次のような理解を得させます。つまり本会を代表して、この委員会が引き受けている考察の任務は、兄弟たちの具体的な生活の場における考え方の変容を問題とするものです。

1991年12月29日に、本委員会は総理事会より「福音宣教との関連におけるフランシスカン的観想の次元」を研究するよう委託されました。これはサン・ディエゴ総会の要請に基づくものです。この研究の成果は1995年に開催される本会総評議会の話題の一つとなります。

観想の次元、あるいはより良く表現すれば、私たちの全存在が依拠すべきキリスト教的霊的経験は、私たちが誓願宣立を通して生涯を捧げる「イエス・キリストの福音に適う生活」(第一会則、序文)への基本的な要請なのです。フランシスコとクララは(彼女の800 年祭を今年祝っていますが)、兄弟たちやクララ会姉妹の生活の中心には「主の霊とその聖なる働きを持ち、常に清い心で主に祈ることを、すべてに超えて憧れ望むこと」(第二会則10章8.9;クララ会則10章9.10)があると強く主張しています。私たちの中に「私たち自身よりも、もっと私たちらしい」神の霊が現存していなければ、私たちはただ空虚な被造物となってしまい、私たちの福音宣教の試みは風に飛ばされる単なることばの羅列となってしまうでしょう。

2. 今日の世界

現代世界は多面的です。深刻な問題があるにもかかわらず、技術文明や民主主義の概念、そして経済発展の流行モデルが一致へと向けて導いています。アジア世界は、その偉大な諸文明と何千もの諸宗教をもって、人類の半分を占めています。アフリカ世界は、人口統計的に最大の伸びを示しており、いく分雑然としながら、民俗的・政治的バランスを探し求めています。ラテン・アメリカ世界は、人種的・政治的な混在状態にあり、その文化的・社会的独自性や諸国家協調の場におけるその位置を追及しています。まったく分裂していて(東と西に)世界人口の比重も大きくないにもかかわらず、いわゆる西欧世界、欧州と北米は、政治経済の中核を占めて、これらの分野を支配しています。イスラム教が世界中に様々な表現形態を持つことを忘れてはなりません。これらの混成物である世界全体に影響を与えている問題は基本的に共通しています:甚だしい不平等を伴った低開発と貧困;自由と自文化の表現へのあがき;科学技術がもたらす善悪両面の影響;そして固有の価値とあいまいさを持った宗教の多様性です。私たち兄弟は世界中に広がり、世界の構造と状況の中に場を持っています。私たちのキリスト者としての召命とフランシスカン的取り組み法は、「神がこれほど愛した」(ヨハネ3.16)この世界を、批判的な観点から見るように私たちを招きます。私たちの行動や努力のすべてにおいて発見と驚きの感覚を持ち、どこで見い出されることになろうとも積極的な価値に注意していなければなりません。なぜなら、この世界は私たちのものであり、私たちはその中にいるからです。もし私たちがキリスト者としてまたフランシスカンとしての自己認識から自分を確認するのであれば、これが私たちの出発点となるはずです。

いろいろな文化的地域毎に、世界には私たちが得ようとしている観想的視野にとって足場になるものと障害となるものの両方があります。足場になるものには、ヒンズー教と仏教の豊かさと複雑さが入り組んだ極東の伝統;アフリカ世界の素朴な自発性;ラテン・アメリカの貧しき兄弟たちへの愛;ユダヤ・キリスト教伝統から生まれた長い歴史のある霊的経験;神の主権と人間についてのイスラム教の主張;そして全般的に、現代世界におけるある種の霊的探究を挙げることができます。同じ位に多くの障害と否定的側面もあることを忘れてはならないでしょう:絶対者である神の相対化:(客観的秩序の実在を否定する)主観主義;富と権力への渇望;貧しい者の搾取;生活の平凡化;すべての内的生活を抑え妨げるほどのメディアの日常生活への侵入など、枚挙にいとまがありません。

3. フランシスカン的観想

私たちが「主に向けられた心」(第一会則 22 章19,25 )を持ち、「主の霊とその聖なる働きを持つことをすべてに超えて憧れ望み」(第二会則 10 章 8)ながら神の人として生きるように神から召されたのは、この20世紀末における、恐ろしくもありまた美しい世界なのです。キリスト者としての召命を生き抜く私たち特有の方法の主要な源泉は、フランシスコの教えの中に見い出されます。心の清さの幸い(訓戒 16 )についての彼の教えは、何が彼にとって観想であるか(彼はこの語を一度も用いていません)について、短いけれども熟知した描写を私たちに提供してくれます。観想する人とは、フランシスコにとって、「清い心」を持つ兄弟でした。心は人格を統合する中心であり、私たちにあっては深ければ深いほどより真実なものになります。「生ける真の神である主を常に礼拝し見つめる」とき、私たちの心は清く保たれます。観想体験の中核的対象をなす神をかく礼拝し、かく見つめることは、全被造物の黙想を除外するものではありません。しかしながら、被造界の現実は絶対者のレベルにまで高めなくてはなりません。そのようなことは偶像礼拝となるでしょう。それらは「無視」されるべきではなく、それらの真の意味に従って他の方法でそれらの深さにおいて考察されるべきです。すべてのことのうちに、兄弟たちは、深い次元、人間に隠された神秘、最終の結末、歴史と自然、そして生ける神を指示するものを把握するよう求めるのです。

クララの霊的な方法も同じ道をたどります。彼女は、常に御父と聖霊に言及しながら、御父の永遠の輝きである(アグネスへの第三の手紙、12-13 )キリストの神秘に強調を置きます。キリストは、私たちへの愛のために貧しく、謙遜で、十字架につけられた方です。彼の神秘の全体を観想し、清貧を実践する際に彼の自己譲渡をまねる時、キリストは本当に愛された花婿として、「すべての被造物の中で最も相応しい」(アグネスへの第三の手紙、20)信仰者の霊魂にご自身をお与えになります。

真正なキリスト教伝統全体としてのフランシスコとクララにとって、観想的な視野は神から人に与えられた能力を意味します。それは、すべての存在するものにおいて、その直接に把握できたり、使用したり表面的なもののほかに、究極の神秘を感知する能力です。

「清い心」が見つめる視野は、すべての現実をそれが神の前に存在するままにとらえます。その中心には、聖三位一体の生命と人との交わり(御子の受肉、そのか弱く栄光に満ちた人間性;聖霊の湧出;その中核には卓絶した観想の人であるマリアの姿を持つ聖徒の交わり)における神ご自身があります。そして人があり、歴史的で社会的存在として、その栄光と惨めさの両方を持ちます。そして最後にキリストが頂点である宇宙があります。

この全体的視野にこそフランシスコは私たちを招いているのです。兄弟たちに宛られた彼の書き物は(会則、全兄弟にあてた手紙、訓戒)、古代や現代の他の戒めを与える文書の多くに見られるよりもかなり強く神秘的な性質を持っています(第一会則 22 章、23章; 訓戒 16;その他参照)。

 
  U.  勧告

1. 人間的内面性を養うこと


人は全体性を持っています。明確な啓示や信仰とさえも別に、その存在の深い現実において、全体性と充満である知られざる神の顔への探究の方向に、人は開かれ向けられています。神の歴史への介入(啓示)はこの人間の願望にその場を持ち、それ自身が既に神の賜物であり、人に信仰の地平を開きます。それゆえ、私たちが初期養成や生涯養成の道によって、心からこの基本的な望みを助けるすべてのものを私たちの内に発展させることは非常に重大なこととなります。この深い態度に、すべてを包含することばである「内面性」と呼ぶこともできます。

感覚を通して私たちが把握し体験している慣れ親しんだ世界は(私たち自身、隣人、私たちの周囲のもの、自然)、まず初めに直接の楽しみか妨げとして、表面的なもの、どこかありふれたもの、いくぶん利己主義的で実用主義的なものとして現れます。

深みや高み、全体性でさえも、不完全にでも私たちが把握するのに成功するのはいつも妨げが伴って(そして恵みを通して)います。この把握は全ての現実に関わります:人間、その生命、その関係、その環境;歴史;自然。それは驚かれ不思議がられるもの;それはあたかも私たちが真の生命の鼓動を暴露するようなものです。それは、誰にでももとっつきやすく、キリスト教的観想の出発点である「自然の観想」の類と関わりがあります。 
私たちはこの内面性、すべてのことの核心、内面を見る能力、を身につけなければなりません。観想は私たちの個人的気質とは別に、外向性(外側、表面だけを見つめること)よりも、ある種の内向性(内側に向かうこと)を前提とします。養成においては、この内面的な視野、この自由で、詩的で、すべての現実に向かう「全体論(現実の基本的有機体である全体がそれを構成する部分の総和よりも存在価値があるとする論)的」な方法を強調する必要があります。

そのような内的態度は、それなしにはいかなる観想的次元も可能ではありませんが、それに達し、保つためには不可欠ないくつかの条件を含みます。

- 個人的な独居を評価することによって自分自身と生きることに慣れること。
- 内的な自由を体験するために十分な自由時間を計画すること(Otium Sanctum : 聖なる 無為)。
- 他者のための存在となるために自分自身であることを学ぶこと。
- ことば、おしゃべり、軽薄さを減らし、むしろ態度にある程度の重々しさを身につける よう努力すること。
- 個人的また共同体としての沈黙のための時間と場所をとっておくこと。
- 無益な趣味、力の消耗、むだな好奇心を避けること。
- 何ら建設的価値のないテレビやオーディオ装置、新聞、読書、娯楽の利用にあたって個 人的また共同体としての分別を実行すること。

2. キリスト教的・フランシスカン的観想に慣れ親しむこと。

もし私たちがキリスト教的観想に慣れるべきであるなら、すべての人に可能な、人間の内面性を養うことが必要です。神からの密かな訴えかけに魅せられて、人は物事の内側に入ろうと求めます。けれども、御父が世界を神の充満に満ちた存在として露わすのは、御子の受肉による到来、その復活、そして聖霊の生命の息づかいを通してなのです。神はすべてのものの中核にあり、すべてのものは神の輝きによって光を放つのです。このようなものが、キリスト的観想の目的であり、それに向けて私たちは招かれています。

神が人に神を神として知らしめるのは、絶対の自由と無条件の恵みによるものです。私たちにその生命と栄光における仲間となり、私たち自身となり、私たちを含む宇宙となるよう招いています。この賜物は、みことばが宣べ伝えられ受け入れられることを通して、そしてとりわけ、みことばが告げられたことを完成する教会の秘跡を通して私たちのものとなります。フランシスコが私たちを招くように、すべての人に差し出された前代未聞のこの賜物を受けること、記憶の中に保つこと、清い心による深い敬意と倦むことを知らない恵みの働きをもってその意味にまで至ること(主祷文についての釈義、6 ):これがフランシスカン的観想についてのすべてです。

しかしここでまた、いろいろな線に従って私たちに示される神秘の深みを測るとき、私たちに課せられるいくつかの要請があります。

- まずはじめに、そしてこれはフランシスカン的道筋ですが、私たちが根底的に貧しく、 私たち自身の物は何一つないこと(訓戒 8:第一会則 17 章 5)。そして私たち自身で は浅薄さと浪費から逃れることができないこと(第一会則 22 章 9-25:訓戒 27 )を認 識しているでしょうか?
- 私たちの心を整え、開き、それをご自身に向けさせ、その霊を通して「私たちを愛され た聖なる愛」(第一会則 23 章 3)を示すことができるのは神おひとりであることを、 私たちは確信しているでしょうか?
- 信仰の現実の理論的で純粋に概念的な知識を、心の知識を前提として全人格を巻き込む 霊的体験から、どのように分離するかを、私たちは知っているでしょうか?

フランシスコはこの知識を「崇め見つめる」(訓戒 16 )という語で特徴づけました。
「他者に解き明かすために御言葉を知ること」だけでは十分ではありません。それでは人を殺す文字です(訓戒7)。聖霊だけが、人に神秘を感知し、それを賛美し、それに近づく能力を与えます。そのような体験は単なることばや概念、感覚を超えるものです。それは何か神的なものに触れ、すべての物事における神の現存を露わし、そしてまた存在するすべてのものに価値を与えます。

3. 準備のできた心にみことばを受け入れること。

「みことばの御言葉と聖霊の御言葉」(全キリスト者への手紙、3 )は、主として新約・旧約聖書の諸書に含まれています。
- 聖書を自発的に、そのものとして読んでいるでしょうか? そのような個人的な購読の 後で、公に聖書が示されるときに反映させているでしょうか? 「他者に解き明かすこ と」だけに自分を限っていないでしょうか?
- フランシスコやクララの著書をその全ての豊かさや霊的深みまで味わっているでしょう か? あるいは、表面をなぞるだけのお定まりで満足してしまっているのでしょうか?- 私たちの長い霊的伝統に親しんでいるでしょうか? 兄弟ジレス、ボナベントゥーラ、 フォリーニョのアンジェラ、ヤコポーネ、ハルフィウス、オッスナ、アルカンタラのペ トロ、カンフィールドのベネジィト、ヴェロニカ・ジュリアーニや他の多くの霊性家た ちを。

フランシスカン的様式の「霊的読書」、すなわち、勤勉に穏やかに私たちの源泉に立ち戻ることは、私たち自身のうちに「清い心」、聞き入る心を形成するのを助けます。
- 私たちはこの「読書」に時間をささげているでしょうか?

4. 「常に清い心で主に祈る」(会則 10,9 )

フランシスコは孤独での祈りについて、そのペースや長さすらも規定しませんでしたが、彼は私たちに「気を落とさずに祈らなければならないので、清い心で主を礼拝しよう」 (第一会則 22 章 29 )と頼みます。孤独での祈りなしには、神における私たちの生活は疲れ果て渇き切ってしまいます。孤独での祈りだけが私たちに内面性についての真の展望を与えてくれます。個人的祈りのペースや長さ、方法について私たちが伝統的に受け継いできた自由は、保護されるべき賜物でしょう。しかしそれは私たちに責任感をも要求するのです。

- 孤独での祈りに携わっていますか? どのようなペースで? どれほどの時間をそれに 捧げているでしょうか?
- 孤独での祈りに、時間や場所を定めているでしょうか?
- 共同でそれを行うよう、勧められていますか? なぜ?
- どのように兄弟たちを個人的祈りに養成しているでしょうか?

5. 「すべての所で、すべての時間に…」(第一会則 23 章 11 )

祈りへの道を開く内面性は、時間とある雰囲気を必要とします。私たちは祈る場所によって助けられあるいは妨げられます。

 時 間

- 個人的祈りや「霊的読書」、霊的自由のために、十分な時間を毎日とっているでしょう か? 
- 忠実に年の黙想(約一週間)をしているでしょうか?
- 祈りの時間は、すべての兄弟が常態的に参加できるように組まれていますか?
- 念祷や純正な内面性に役立つような静かな雰囲気が住居の中にありますか?
- 共同体は定期的な刷新を忠実に行っていますか? 例えば、静修日や黙想など。
- 望む兄弟は、彼らの霊的生活を深めることに没頭するために、より長い期間(2、3ケ 月かそれ以上)、得ることできますか?

 場 所

- それぞれの住居(修院)には、趣味が良くあまり豪華でない調度品を備えていて兄弟た ちが個人的祈りに引きこもることができるような指定された場所(礼拝堂)があります か?
- この祈りの場所にはすくなくともテレビ室や休憩室と同様な重要性が置かれていますか- 管区、地方、国に、祈りの家(リティロ)がありますか? それを設けるよう努力しま したか?
- これらの祈りの家は主に兄弟たちのために設けられていて、彼らの観想的体験への霊的 益となるように組織されていますか? それともそれは他の人々のための黙想の家で、 その仕事のために任命された兄弟たちによって運営されているものでしょうか?

6. 神の御前で敬けんに執行する(全兄弟会にあてた手紙、41参照)

祈りは私たちの心を神に向けて整えます;典礼の諸祭儀(聖体祭儀、赦しの秘跡、時課の典礼)は、典礼においてまた典礼を通して現存される救いの神秘に私たちが参与することを可能にします。秘跡が成し遂げるものを、みことばは引き起こし、告げ知らせ、約束します。私たちは毎日、聖体祭儀を執行し(全キリスト者への手紙、6-7 ;全兄弟会にあてた手紙、30-33 ;訓戒1、14-22 )、それを深く銘記し、それに伴う賛美の聖務を唱えます。

- 忠実に、全部参加して、深い信仰の精神と内的静寂さの雰囲気において祭儀を行ってい るでしょうか?
- 毎日祭儀を行う救いの秘義の霊的な理解のために、習慣的となりうんざりする危険を冒 して典礼の神学の研究を通して準備することに頭を悩ましているでしょうか?
- 私たちの祭儀執行は、教会の意図に忠実でしょうか? 教会は典礼注記を見ることだけ でなく、秘義の理解や私たちが関わっていることの威厳と祭儀上の美を求めています。- 共同体の司祭会員は、ていねいな執行と儀式上の美しさに必要な準備に、時間と労力を 注いでいるでしょうか?

7. どこにでも現存しておられる神を見出すこと

寛大なみことばを喜んで受け入れ、個人的な念侍でそれを続けること、ならびに典礼祭儀における秘義の現存は、私たちの心を変化させ清くし、現存するすべてにおいて神の現存を見出すことができるようにします。それも「神をはらんだ世界」(フォリーニョのアンジェラ)を観想できるように。神はすべての人間にも存在します。彼の人間的表情は、主に貧しい人や見捨てられた人のそれで、彼が似姿となっている人の神を現わにします。人間的態度は、個人的であれ、団体的であれ、その積極的・消極的側面においてもまた、何らかの神的なものを現わにします。人間と世界は、人はその宝、知性、自由であるとして、聖なる秘義です。人間の歴史において、普遍的平和を求める高楊と沈滞において、「私たちの姉妹である」すべての秘造物とすべての人間存在の表情に、私たちはフランシスコと共に、「誰も御名を呼ぶにふさわしくないほど、いと高く、全能の、善い主」(太陽の歌,1-2 )を発見することができるでしょうか?

8. 「私たちが観想したものを私たちは伝えます」(1ヨハネ 1 章 1参照)

喜ばしき便りを告げることはすべて、生活によるあかしを通してであれまたことばによるものであれ、その語り手が霊的体験の人であることを示さないのであれば、可能でも意味を持つこともありません。私たちは「私たちが聞き、目で見、みつめ(観想し)、手で触れた」(1 ヨハネ 1,1 )ものだけを伝えることができます。そうでなければ、フランシスコが言うように、「肉の霊」に導かれて、私たちはあかしではなくことばを、内面性ではなく外面性を強調してしまいます(第一会則、17章11参照)。本会の歴史的経験もまた、フランシスカン家族の雄大な物語りにおいて偉大な使徒的重要性を示唆したものが、観想的な内的生活の刷新であることを私たちに教えます。私たちの生活の観想的次元はそれゆえ、飾りや媒体としての単に第二義的な要素ではありません。それはむしろ、私たちの生活や仕事の活力がほとばしり出る深い水源なのです。それは人類と教会への奉仕における活動を支え養う根源なのです。